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アメリカン・サイコ
監督:メアリー・ハロン
出演:クリスチャン・ベール、ジャレッド・レトー、ウィレム・ダフォー、ジョシュ・ルーカス、リース・ウィザースプーン、サマンサ・マシス、マット・ロス 他
言語:英語
リリース年:2000
評価:★★★★★★★☆☆☆
American Psycho(2000) ©Lions Gate Films『参照:https://www.imdb.com』
もくじ
『アメリカン・サイコ』の主な登場人物
ウォール街の投資会社P&P(Pierce&Pierce)に企業の買収と合併のスペシャリストとして勤務する若手のエリート。裕福な家庭に恵まれ、名門校フィリップス・エクセター・アカデミーを卒業後、1984年にハーバード大学を修了。その2年後にハーバード・ビジネス・スクールで経営学を学ぶ。ずば抜けて容姿端麗、頭脳明晰、社会的地位も財力も高く、一見すると全く欠点が無いと言えるが裏の顔は猟奇的な連続殺人鬼。異常な競争意識を持ち、常に他者を出し抜いて見下していないと気が済まない性格が特徴的で、ホームレスや身体を売って生活する娼婦などは特に卑下している。
映画化に際しては『タイタニック』(1997年)で名を馳せたばかりのレオナルド・ディカプリオの起用が検討されていたものの、多くの若い女性ファンを持つディカプリオがチェーンソーで女性を切り刻む衝撃的な映画の制作にはゴーサインが出ず。演じれば俳優生命が脅かされると囁かれていたパトリック・べイトマンは、結果的にクリスチャン・ベールが見事に演じた。
American Psycho(2000) ©Lions Gate Films『参照:https://www.imdb.com』
べイトマンの同僚。ルックス、学歴、地位のいずれも非の打ち所が無い若者。しかし、べイトマンの事を常に別人と間違えてしまい、品質とデザインが優れた名刺を持っていた為、べイトマンの逆鱗に触れる。酩酊状態で、べイトマンの自宅に連れ込まれ、斧で惨殺されてしまう。尚。原作ではポール・オーウェンと名乗っていたが、映画ではポール・アレンとなっている。演じるのはジャレッド・レト。ちなみに、べイトマン役のベールが斧を大きく振って迫る瞬間は、レトには事前に知らされておらず、恐怖に慄いた表情は実際にレトが怯えた顔。
American Psycho(2000) ©Lions Gate Films『参照:https://www.imdb.com』
ポール・アレンの失踪事件を捜査している探偵。失踪当初から、べイトマンに疑念を頂いており、幾度か尋問していたが決定的な証拠は掴めなかった。しかし捜査を進めるに連れてアレンがロンドンで生存しているらしい事や、アレンが失踪したと思われた夜はべイトマンにアリバイがあった事から捜査を断念。演じるのは、ウィレム・ダフォー。
American Psycho(2000) ©Lions Gate Films『参照:https://www.imdb.com』
『アメリカン・サイコ』本編の解説と考察
ストーリーの振り返り
1988年のニューヨーク、ウォール街。投資会社P&Pに副社長として勤務するパトリック・ベイトマンはルックスもマネーも不足の無い贅沢な日々を送っていました。
ロングアイランドに居を構える裕福な一家に生まれ、アメリカ屈指の名門校フィリップス・エクセター・アカデミーを卒業しハーバード大学に入学。現在はトム・クルーズも住んでいる都心の一等地アッパーウェストサイドのアパートメントを借り、デザイナーズやブランド品の衣服を纏って、ニューヨークでも有数の高級レストランと美容サロンへ定期的に通うヤッピーの典型。
日々、高収入で高学歴な同僚に囲まれつつ、張り合うべイトマン。友情や人間関係は全て表面的で、物質主義の極致へ達したエリートの世界に支配されたべイトマンは、自分よりも質感とデザインが優れた名刺を持っていた同僚のポール・アレンに立腹し、ある日の帰路の途中でホームレスとその犬を殺します。そして遂には酔ったアレンを自宅へ誘い込み、『ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース』を流しながら斧でアレンを叩き切ります。
遺体を処分してアレンの自宅を片付け、ロンドンへ旅立った様に偽装したべイトマンですが、その後も娼婦を2人呼び込んで殺人を繰り返します。べイトマンの自宅は血に塗れ、快楽殺人の域に踏み込み始めてしまいます。
程無くして、同僚のルイス・カルザースが新しい名刺を披露。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『参照:https://www.imdb.com』
カルザースを殺そうと考えたべイトマンはレストランの洗面所で首を締めようとしますが、同性愛者のカルザースはアプローチされたと勘違いしてしまう。結果的にカルザースからも想いを打ち明けられたべイトマンは、嫌悪感に身震いしながらカルザースを殺さずに立ち去ります。
再び殺人を繰り返した後、べイトマンは秘書のジーンへ自宅での食事に誘います。ソファに腰掛けたジーンの後頭部に釘銃を向け、引鉄を引こうとした刹那、婚約者のイヴリン・ウィリアムズから留守番電話が届き、べイトマンはジーンに帰る様に促します。
べイトマンはアレンの失踪を捜査していた探偵のドナルド・キンボールに容疑者から外れた事を告げられますが、その後も娼婦を呼び込んではチェーンソーで無残に殺害。
後日、ウィリアムズと婚約を解消したべイトマンはATMで現金を引き出そうとしますが、液晶画面には野良猫をカード挿入口へ挿し込む様にと指示する文字が。傍らの猫を銃殺しようとした瞬間を目撃した女性に悲鳴を上げられ、反射的に撃ち殺してしまいます。駆け付けた警官隊も殺してしまい、勤め先のオフィスへ逃げ込むもビルを間違えてしまった為、受付係と清掃員も射殺。辛くもオフィスへ辿り着いたべイトマンは、半ば錯乱しながら顧問弁護士のハロルド・カーンズに電話で全ての罪を自白します。
しかし、再会したキンボールにはロンドンでアレンの目撃情報が寄せられた事を伝えられ、べイトマンは混乱。翌朝、遺体を確認すべくアレンのマンションを訪れたべイトマンを待ち受けていたのは空室。鉢合わせた不動産管理会社の者には、奇妙にもアレンの部屋ではない事を伝えられ、立ち退く様に迫られます。そしてべイトマンが同僚と昼食を摂っている間、ジーンはべイトマンのオフィスで衝撃的なジャーナルを見付けてしまいます。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『参照:https://www.imdb.com』
全裸の女性がチェーンソーで切り刻まれている様子。鉛筆で黒く塗られた血溜り。正気の人物が描いたとは言えない絵が隙間無く鏤められていました。
一方、カーンズと対面したべイトマンは前夜の電話に触れますが、カーンズはべイトマンを別人と間違えた挙句、ロンドンでアレンと夕食を共にしたので死んでいる事は到底有り得ないと一蹴。茫然自失としたべイトマンは同僚の元へ戻りますが、べイトマンが殺人鬼である事は露知らず、夕食を摂るレストランを相談するばかり。
望む罰を受けられる事は無いと悟ったべイトマンは絶望し、最早これまでの殺人が現実だったのか、ジャーナルに描き殴っただけの妄想だったのか明確にならず、疲弊したべイトマンの声が終幕に響きます。
あの告白には全く意味が無かった、と。
『アメリカン・サイコ』の主要テーマ
誰もが知るブランド品を纏い、豪奢な住まいで足を伸ばし、屈指の高級レストランで常日頃から食事を嗜む。
僅かでも外見やステータスが己に勝る者が現れたら、目を血走らせて殺す。
文章にすると荒唐無稽で理性とプライドがある人間がする事とは到底思えませんが、病的なステータス至上主義的を風刺したブレット・イーストン・エリスの小説の世界は、如実に現代を表していると言えます。高級レストランでの食事の様子、現金で買い叩いたパテック・フィリップ、世界を旅している自分、可愛く着飾らせたペット、バカンスで寛いでいる姿、今日納車したアストン・マーティン、果ては自分の美しい顔。インスタグラムに限らず、SNSの世界は右を見ても左を見てもパトリック・べイトマンだらけです。
『アメリカン・サイコ』は、そんな現代を20年前から風刺していたのだからジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)を凌駕する先見性で、SNSの出現によるナルシシズムの世界的な標準化を予見していた様にも思えてしまうほど。
べイトマン然り、『アメリカン・サイコ』に登場するエリートは全て男性。1980年代のアメリカの男性が求めていたとされる、皮相的なステータスを嘲笑する作品で、如何に当初のエリート間で捉えられていたマチスモが馬鹿げているかがメッセージになっています。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『https://www.imdb.com』
白昼堂々とクリーニング店の店員に殺人の脅しめいた暴言を吐いても問題視されず、カーンズに数十人以上の殺人を自白したにも関わらずジョークだと一笑に付してしまう異常な世界。
その真因こそが、『アメリカン・サイコ』に隠されたテーマ。
『アメリカン・サイコ』の中心人物はべイトマンですが、それ以外の人物もサイコなアメリカン。自己中心的で、厳密に言えば極端に自己と物質的な世界にしか興味がありません。一方で目指している裕福で光輝くエリートなステータスは同じです。ヴァレンティノのクチュールを纏い、撫で付けたスタイリッシュな髪型にセットし、オリバーピープルズのグラスを掛け、果ては名刺に記載されている肩書までもが全て同じ。
誰もが変わり映えしない。固有のアイデンティティの崩壊。『アメリカン・サイコ』はアイデンティティが無いまま、社会に承認される事が生き甲斐となった憐れなエリートの成り下がった無味な人生をパロディに仕立て上げています。
刮目すべきは、ショッキングなラスト。アレンの自宅は死体の遺棄場となっていたのに、いつの間にか空室として売り出されていましたが、異様な光景に怯むべイトマンに追い打ちを掛ける不動産管理会社のスタッフ。新聞の広告を見て内覧に訪れたのかと尋ねられたべイトマンは、そうだと応えたものの、翻って新聞に公告は出していないと明かされて泡を食わされて追い払われます。
オーディエンスとしても謎が多い場面です。
このシーンではべイトマンよりも、不動産管理会社のスタッフの言動に違和感を覚えたはず。べイトマンが新聞広告を見て訪れた事は有り得ないと知りながら、陥れる理由がミステリアス。辻褄が合うのは、死体を発見した不動産管理会社が、凄惨な殺人現場となった空室の価格が暴落して売れなくなる事や被り得る損害を危惧し、慌てて死体を処理して何事も無かったかの様に涼しい顔で販売を目論んでいる可能性だけです。
差し詰め、突然部屋を訪れて挙動不審なべイトマンが犯人である事は一目瞭然だったものの、通報すればアレンの自宅で発見された死体の存在が明るみになってしまうので、騒ぎを起こさぬべく立ち去る様に警告に留めたと考えるのが自然です。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『https://www.imdb.com』
モラルや人間性を無視した、不動産管理会社の異常な対応。死体の山を隠蔽して利益を追求する考え方は、『アメリカン・サイコ』が絶えず蔑むコンセプトです。サイコが四方八方に浸透し、最早ノルムにさえなっている事を描いています。
アイデンティティを望む事は、ステータス至上主義の覇者を望む事と対極にある。『アメリカン・サイコ』は矛盾する理想を掲げるべイトマンの狂気への墜落を介してソースティン・ヴェブレンが唱えた有閑階級の理論に即して富裕層や、ワナビーが目指す浅いのに叶わぬ人生の虚しさと、叶わぬ事に構わず求め続ける男が募らせる不満を嘲けている作品だと気付くと、チープなスプラッタ映画を大きく凌駕する魅力を放つはず。
ソースティン・ヴェブレンと有閑階級の理論って?
20世紀初頭にアメリカの経済学者、社会学者として知られたソースティン・ヴェブレンが1899年に唱えた理論。有閑階級の理論(The Theory of the Leisure Class)は、富豪の生活様式を人類学的な見地から分析して解釈を与えたもので、”誇示的消費”や”誇示的余暇”など分かり易くも印象的な用語を登場させた事で反響を呼びました。
巨大な邸宅や、贅沢な調度品、豪華な衣服やパーティに惹かれる類は、野蛮人の羽飾りや祭祀と本質的には同列であると述べられ、そうした皮相的な行いを鋭く皮肉った著書となります。アメリカでは、この理論で見せびらかしと評された贅沢や余暇は、悪趣味とされてしまい、あからさまにひけらかす行為は下火になったと言われています。
『アメリカン・サイコ』の悍ましい殺人シーンの数々も異様に戯けた雰囲気が漂い、アレンが脳天を斧で叩き割られる瞬間も『ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース』が鳴り続け、醜悪な行為とは対照的にコメディックなアンビエンスを与えています。べイトマンの様に、財力とステータスに固執する人間の行動は全て軽躁で、殺人でさえもシリアスに捉えるに値しないのです。
異常なマチスモの根源は女性?
『アメリカン・サイコ』でべイトマンの毒牙を向けられるのは、多くがホームレスの男性や娼婦の様な低所得者。社会的に、ウォール街に勤務する一流ビジネスマンの爪の垢にも値しないとされる人々。
キンボールが独自に捜査を進めているのは、ポール・アレンの失踪に関してのみで、被害者数が最も多い娼婦たちの失踪は言及すらされません。その点、『アメリカン・サイコ』は男性のエゴが齎す男尊女卑の考え方も批判していると考えられます。
べイトマンは娼婦の様な人間であれば、殺しても咎められる事は無いと高を括っている様にも見え、あろう事か、その目論見の通りに『アメリカン・サイコ』はエンディングを迎えます。秘書のジーンに対しても服装を指示するシーンがあり、女性を卑下する男性の浅ましい性質を如実に表しています。
しかし、男性のエゴの原動力を問うと、不思議とゴリラ然とした知性と品性しか持ち得ない為だと示唆される事が多い。女性は断固拒否する自由がある一方で、男性は性差別にも耐えねばならないらしい。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『参照:https://www.imdb.com』
理解し難いのは、男性のエゴの根源と理由を探らない姿勢。女性は家事と育児しか能が無いと主張する事と、男性は自己顕示欲に溢れた女性に劣る霊長類と主張する事は同程度に馬鹿げていると思いますが、後者は面白い事に、問題発言にはならない様です。
『アメリカン・サイコ』に登場する男性が互いに蹴落とし合う原因は優越感を欲するが故。最も優秀で魅力的な男性となる事は、即ち多くの女性にも魅力的に映る事になる。人間も如何せん種根を残さねばならない以上、一般に異性からも魅力的に映る振舞いや装い、ステータスを目指すもの。女性に求められるから、男性は上り詰めようとする。その可能性に言及しない理由が皆目分かりません。
『アメリカン・サイコ』はべイトマンの一方的で、常軌を逸した残虐行為をハイライトしていますが、男性が性悪説に則って生まれるミソジニスティックな暴君と唱える考え方は解せない。
昨今のフェミニズムは、男性的な視点を著しく欠いていると言わざるを得ません。然りとて、字を読んで如くフェミニズムは即ち女性イズム。男性批判に傾注し、全て男性生来の横暴で高飛車な性質に起因すると示唆するのは不毛極まりない上、女性の立場を優位にする考え方に他ならない。
女性に限らず、誰に対しても暴力、果ては殺人など如何なる理由があっても正当化し得る行為ではありませんが、それを隠す財力とステータスの仮面を魅力的に感じる女性が多い事も否定し難い。『アメリカン・サイコ』は男性の異質で狂気的なプライドを滑稽に映し出していますが、それだけで男女格差を語る事こそ浅ましいと言うもの。
エンディングの考察
『アメリカン・サイコ』は曖昧なストーリーが幻想か現実かを考えを巡らせる事が醍醐味の1つ。
数々の殺人を犯しているにも関わらず、捜査線上にべイトマンが浮き上がるのはポール・アレンの失踪事件に限り、全裸でチェーンソーを振り翳して恐怖に泣き叫ぶ娼婦を追い回すべイトマンに気付く人が1人としていない事は明らかに非現実的。挙句にATMのカード挿入口に猫を挿し込もうとしたシーンも合わせると、『アメリカン・サイコ』はべイトマンの異常な精神が生んだ虚妄だと結論付ける事が合理的に思えます。
しかし、『アメリカン・サイコ』が全編を通して虚妄とは言えません。
全て妄想だとすると、ラストでカーンズがべイトマンの自白に取り合わなかった事は実に奇妙で説明出来ない。即ち、『アメリカン・サイコ』を通して現実と妄想が綯い交ぜになったシーンの数々を観ていたのだと考えられます。カーンズとの対話シーンが現実だとすると、顧問弁護士にすらべイトマンが別人と間違えられている事に注目。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『参照:https://www.imdb.com』
『アメリカン・サイコ』の世界では、べイトマンの妄想でなくとも利己主義的で他者に一切興味が無い人々で溢れ返っていると言えます。カーンズが眼前のべイトマンを”デイヴィス”と呼び間違える様子から、極端に周囲への関心が無い事は明らか。
この異常な程の無関心が謎を説明する鍵の1つ。
アイデンティティの崩壊、全く同一のアイデンティティを共有している『アメリカン・サイコ』の世界は、現代と同じく、パトリック・べイトマンだらけなのです。
暗夜に響くチェーンソーの轟音と女性の絶叫にさえ無関心だったから、べイトマンの猟奇的な犯罪が咎められなかったと考えられます。現場は如何せんアレンの住居。ステータス至上主義的なサイコパスが集まっていると考えて差し支えありません。後述しますが、現実にべイトマンの妄想で上塗りされたシーンが映し出されていると言った方が正確で、実際には廊下を駆け巡って殺したとは考えられず、チェーンソー騒ぎは室内で完結した可能性が高い。
べイトマンがクリスティに唯一追い付いた場所はバスルームですが、その直前まで持っていたチェーンソーは見当たらず、彼女の脹脛に噛み付きます。殺さない理由が無いのに。そしてこの時、クリスティに付着した血痕が廊下やドアには付着しませんでした。即ち、クリスティはバスルームでべイトマンに捕らわれた時点で殺され、それ以降はべイトマンが妄想を重ねたシーンだとすれば、不自然な現象の違和感は概ね払拭出来ます。
それを裏付けるとも言える瞬間が、先述したアレンの住居を訪れたべイトマンが一見不必要に陥れられるシーン。ヴァレンティノのスーツ宛らハンガーに掛けられた死体が蒸発して、恰も妄想だったかの様に演出するだけに留まったならべイトマンの忌むべき幻想だと確信出来ますが、不動産管理会社の女性の不審な言動はそれを覆すもの。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『参照:https://www.imdb.com』
アレンの自宅には、実際に酸鼻極まりない死体の山が隠されていたと考えざるを得ません。
差し詰め、チェーンソーのエンジン音に気付かない住人を妄想の証拠とするには、べイトマンの周囲に隣室の絶叫する女性とチェーンソーに異常を覚える常識人が著しく少ない事が問題になります。何よりも、娼婦を殺していなかったとすると不動産管理会社の女性の対応は説明出来ない。残る疑問はアレンをべイトマンが殺害したか否かです。
気掛かりなのは、べイトマンがアレンを別人と取り違えている可能性があること。
ジャレッド・レト演じる人物がべイトマンに声を掛け、去った後にティモシー・ブライスがアレンの名刺をべイトマンに見せます。べイトマンとオーディエンスは、アレンと思しき人物が自らその名を口する瞬間や、その手で名刺を振り翳す瞬間を目撃する事はありません。ブライスはアレンに直接名刺を手渡された唯一の人物ですが、一度名刺入れに納めた後に再び取り出しています。名刺を手に取った瞬間、ブライスが怪訝な表情でアレンを一瞥している事も気掛かりです。推論の範囲ですが、名刺に記載したあった名前が、アレンではなかった為と考えられます。周囲にアレンと呼ばれ、反応しているので一見、ポール・アレンに間違いない様ですが、考えてみればべイトマンも”ハルバストラム”なる人物に間違えられますが、正す事はありませんでした。
アレンと認識している人物も、別人に取り違えられる事に慣れ、敢えて訂正しなかったと考えても不自然とは言えない。べイトマンが斧で叩き切った男は、ポール・アレンではない可能性が充分にあります。
不動産管理会社の女性の発言でも、空室の元住人がポール・アレンではなかったと明言している事も聞き捨てならない。無論、べイトマンを陥れる為の咄嗟の策略の一部とも考えられますが、カーンズがアレンとロンドンで2度も食事をしている事や、キンボールもべイトマンのアリバイが成立すると確認している事を踏まえると、べイトマンが別人を殺し、別人の自宅をアレンの住居と間違えて死体を遺棄していたと考えても矛盾はありません。
しかし、べイトマンが娼婦を殺したと結論付けた前提に、異常な程の無関心を挙げている以上、カーンズに関してはロンドンで食事した人物をアレンと取り違えている可能性は否めない。一方でキンボールは捜査に際して、厳密に裏取りをしている事が伺える為、信憑性は高いと言って差し支え無いと考えられます。
出典:”American Psycho(2000) ©Lions Gate Films”『参照:https://www.imdb.com』
一度寄せられているアレンの目撃情報が人違いだと突き止め、綿密に捜査をしている事から、アイデンティティが崩壊した『アメリカン・サイコ』の世界でも一線を画すキャラクターと捉えて問題無いと推察されます。ポール・アレンは確かにロンドンへ発っていた。奇しくもべイトマンが留守番電話に残した行先と一致していますが、偶然の可能性も否定出来ない反面で、アレンの旅先をべイトマンが予め認識していた事も考えられます。後ろ盾となるシーンは無い為、強く主張出来るポイントではありませんが、推論の全体像を翻倒する程のウェイトは占めないはず。
即ち、『アメリカン・サイコ』はべイトマンの妄想と現実が入り混じったストーリーで、ポール・アレン(厳密には人違い)と娼婦を殺していたのは現実だが、自白する直前に警官隊を一網打尽にしたシーンは極限の錯乱状態でべイトマンが妄想した一連の場面と言えます。しかし、後者が全て幻想だとするとオフィスから自白するシーンへ繋がらない事を踏まえ(空想で殺戮を犯して惑乱したとしても、自白する為にオフィスへ敢えて赴いたとは考え難い)、このシーンでも人を殺していた事は現実と考えます。弾丸一発でパトロールカーのガスタンクを都合良く打ち抜いたり、ビルの受付係や清掃員をヘッドショットで殺害したりとの“描写”が妄想だったと説明出来ます。異様に整った身嗜みを含め、あの夜はべイトマンの脚色が与えられたシーン。
べイトマンは『アメリカン・サイコ』で描かれた通り、度重なる殺人を犯し、死体を隠し、自白した。しかし、殺す前にセックスに及んだ娼婦はべイトマンが思い描いた程の美人でもなく、身形も良くはなく、スムーズに殺せたのでもない(階下に落下させたチェーンソーが逃げる娼婦に致命傷を与えられた瞬間も察するに脚色)。シーンやカット毎に現実と妄想が切り替わったのではなく、現実の上に妄想で語られた誇張が薄く塗り重ねられていたのです。
つまり『アメリカン・サイコ』で起こった事の全容は?
パトリック・べイトマンは確かに娼婦とジャレッド・レト演じる人物をポール・アレンと間違えて殺した。それはアレンと間違えた人物の名刺を受け取ったブライスの反応から伺える。そして不動産管理会社の女性の言動は、アレンの住居にべイトマンが死体を確かに隠していた事を表しています。しかし、劇中で異常だと思われる数々のシーンは、現実をべイトマンが妄想で上塗りした事で説明がつく。
娼婦のクリスティを殺した時のチェーンソーの轟音は、隣人には聞こえていたかも知れないものの、『アメリカン・サイコ』の世界では異常な程の無関心が常態化していて然程注目されなかった可能性が高い。特に、バスルームで追い付いたべイトマンにクリスティが殺されたとすると、彼女が廊下で隣人のドアを叩いたり、ホールをチェーンソーで追い回されたのはべイトマンの脚色。
本物のポール・アレンはロンドンに発っており、生存しているがべイトマンとは顔を合わせていなかった。ATMに猫を挿入しようとしたシーンでも確かに警官隊や通りすがりの女性、受付係と清掃員を殺害していたが、問題のシーンで映し出されていた程スムーズには行っておらず、べイトマンの妄想と誇張が含まれていた。
『アメリカン・サイコ』がもっと楽しくなるトリビア
ヤッピー界の覇者ドナルド・トランプ
2020年現在、不動産王転じてアメリカ大統領として知られる様になったドナルド・トランプ。
『ホーム・アローン2』でマコーレー・カルキン演じるケビンと、ホテルのロビーで一瞬だけ会話するカメオ出演していた事は良く知られていますが、『アメリカン・サイコ』でもその名が登場します。
愛人のコートニー・ローリンソンを連れてタクシーに乗ったべイトマンが、窓から見えたらしい車に対しての発言です。オーディエンスには問題の車は見えませんが、ヤッピーの代表格とも言えるドナルド・トランプを意識している事が分かります。
美しい妻と莫大な資産、1985年に所有していた自宅は金で塗られた高級生地のテーブルクロスとクリスタルで造られたシャンデリアに、ティファニーの調度品が並ぶ。当初、誰もが羨むとされた贅沢の象徴でした。
尚、アレンとの食事中にイヴァナ・トランプの名も一瞬登場します。
カタルシスを得られなかった証拠
ジャン=ポール・サルトルの『出口なし』(1944年)はフランスの戯曲で、地獄へ落ちた3人の亡霊に焦点が当てられます。地獄を脱するべくストーリーが進みますが、ラストでは出口が与えられたにも関わらず、各々の罪を抱えて脱する事で他の2人にどの様に思われるかが不安で出口から抜ける事が出来なくなります。
そしてカーンズに自白を一蹴された『アメリカン・サイコ』のエンディングでも、失意に沈むべイトマンの背景に映ったドアには”This Is Not An Exit”と記載された札が見えます。『出口なし』の亡霊の如く、べイトマンは己が生んだ地獄に幽閉され、ヤッピーの森の中で唯一差別化する為のアイデンティティ、殺人鬼である事を認める人物が現れるまではカタルシスを得られない。
ドアの文字は、殺人鬼としてカタルシスを得ようとしたべイトマンには望む結末が訪れない事を示しているのです。
パトリック・べイトマンになりたいアナタへのオマケ
血に飢えて我を見失った殺人鬼の趣向とは言え、物質主義的で市場主義が蔓延している現代人からすれば、べイトマンが手中にした贅沢な生活に羨望を向けて止まない人は多いはず。
演じたクリスチャン・べールのルックスこそ手に入らないものの、自宅のレイアウトを模す事は出来るかも知れません。このリンクを辿れば、べイトマンの部屋の3Dツアーを体験出来ます。洗面所のアートポスターに至るまで、細かく再現されているので観るだけでも楽しめるサイト。
出典:”Pascal Babey, Archilogic”『参照:https://www.archdaily.com/』
そしてべイトマンの装いと言えば、ヴァレンティノのスーツ。
忠実にべイトマンに合わせるならば、ヴァレンティノでチョークストライプ・パターンの生地でビスポークを仕立てる事が最適ですが、リーズナブルな価格で再現する場合はアルマーニ・コレツィオーニに目を向ける事をお勧めします。このリンクで紹介されている、ピークド・ラペルのピンストライプ・スーツは概ね15万円前後と手が出し易い価格帯。
真のジェントルマンは高級品に溺れる必要はありませんが、妥協しないと言われるのはスーツ。簡単に殺人を犯してしまうべイトマンから見習うべきは、スーツへの拘り程度と言ったところ。その魅力に溺れない様にだけ、気を付けてください。
いかがでしたか?
『アメリカン・サイコ』は悪趣味なスプラッタ映画の様に思えますが、隠されたメッセージを捉えてみると途端に共感出来るポイントや、痛烈な風刺が笑いを誘う作品。ミステリーの要素は薄いものの、何度も観たくなる魅力を備えています。
芥川龍之介の短編小説、『藪の中』(1992年)にも似た真実を探る面白さもあって、既に鑑賞した方でも改めてお勧めしたい一品。
殊にSNS中毒となった現代人には、戒めになる部分もあると思います。