近畿地方のある場所について
監督:白石晃士
出演:菅野美穂、赤楚衛二、夙川アトム、佐藤京 他
言語:日本語
リリース年:2025
評価:★★★★☆☆☆☆☆☆
近畿地方のある場所について(2025) ©日テレアックスオン『参照:https://wwws.warnerbros.co.jp/』
『近畿地方のある場所について』の感想サマリー
『近畿地方のある場所について』は身近に感じそうな民間伝承を題材にして正統派Jホラーだが、登場人物の奥行の無さとチープなCG、そして既視感漂う二番煎じ感を禁じ得ない内容に。評価としては一歩、良作には及ばないホラー映画となった。【4/10点】
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もくじ
あらすじ
オカルト専門雑誌『不思議マガジン』で特集を担当していた佐山武史が
締め切りを前に忽然と消息を絶ってしまった
期日までに特集の纏めを上層部から指示された編集部員の小沢悠生は
知人の女性ライターに助力を求め、
共に佐山が残した資料を繋ぎ合わせながら特集の完成を目指す
資料から垣間見える謎めいた現象、死、伝説や童話
一見繋がりを持たない様に見えるが、そこに秘められた
驚きのラストと佐山が追っていた秘密とは…?
じわりじわりと迫る怪異の恐怖に戦慄するJホラー
レビュー
少しばかり都市部の喧噪を離れ、地方へ足を運んでみると、改めて日本の自然の豊かさと美しさに気付かされる。深い森や脈々と連なる山々の壮観は、何度目にしても息を呑むものがある。その一方で、時に天変地異とも呼べる大災害に見舞われる地でもあり、日本で見かけない災害といえばハリケーンくらいではないだろうか。そこには侘び寂びの文化が今も息づいているせいか、自然、あるいはそれを越えた《何か》に翻弄される神秘と翳(かげ)りが共存している。
そんなミステリアスな日本を舞台にしたホラー作品は少なくないが、私はとりわけ、古来の伝承や不気味な言い伝えを題材にしたものに強く惹かれる。
望まぬ死を遂げた者の怨念という枠組みを超え、謎や秘儀といったエッセンスが加わることで物語に深みが増すからだろう。美しく清々しい表情を見せる深緑の山々に隠された闇、そして日常のすぐ隣にある秘密。日本人なら、熱心な信仰者でなくともデートや散歩の折に気軽に訪れる神社仏閣が至る所にある。そうした日常の風景が舞台に取り込まれるからこそ、恐怖が際立つのだ。
こうした趣向を好む人にとって『近畿地方のある場所について』は一見お勧めできそうな一作だが、全体として中途半端な印象は否めない。
物語の発端は、オカルト専門誌に掲載予定だった特集記事だ。特集を担当していた佐山武史は、入稿期限を前に忽然と失踪してしまう。後始末を任された編集部員の小沢悠生は、佐山が残した膨大な調査資料をまとめ上げるべく、ライターの瀬野千紘に助力を求めた。二人は資料を読み解き、パズルを完成させるように断片的な情報を繋ぎ合わせていくが、次第に抜き差しならない怪異へと引きずり込まれていく。

出典:”近畿地方のある場所について(2025) ©日テレアックスオン”『参照:https://press.moviewalker.jp』
佐山が残した資料の多くは動画形式であり、鑑賞者は小沢や瀬野と共にそこに隠されたヒントを追うことになる。この構成は今作でもメガホンを取る白石晃士監督の『ノロイ』(2005年)を彷彿とさせ、ホラー界を席巻したファウンド・フッテージ形式の長所を上手く活かしている。実在する童話や童謡に潜む怪奇性を織り交ぜる演出も、没入感を高める装置として機能していたと言えるだろう。
しかし、ストーリーラインが想定の範囲内であったことは残念だ。物語の中盤で瀬野の真意に感付くことは容易で、ミステリーとしての意外性は乏しい。そして何より、クライマックスを汚してしまう稚拙なCGが、積み上げてきた恐怖を一気に削いでしまった。邦画におけるCGの質の低さは今に始まったことではないが、本作においては、それまでの写実的な演出や没入感を根底から破壊してしまったという点で、その罪は重い。
そのCGの質感は、まるで20年近く前の『ULTRASEVEN X』(2007年)を観ているかのようだった。怪異という抽象的で恐ろしい存在が、一昔前の宇宙人の飛行シーンの様なクオリティで描かれては、興醒めするほかない。(YouTubeチャンネル『ALTER』が紹介するような無名スタジオの短編ホラーの方が、よほど高度なVFX技術を駆使しているのは皮肉な話である)
一方で、劇中で発生する多種多様な怪異は、一見しただけでは相互の関連性が見えにくいものも多い。
その点では、鑑賞後にパズルを解くような考察し甲斐のある作品として評価することもできるだろう。むしろ、作中に散りばめられた伝承や怪異を一つひとつ論じることこそ、本作の醍醐味と言えるのかもしれない。(劇場用パンフレットに詳細な種明かしが記されているそうだが、正解が提示されてしまうことで、観客が「正解のない恐怖」に興じる余地を奪っている点は、いささか惜しいと感じる)

出典:”近畿地方のある場所について(2025) ©日テレアックスオン”『参照:https://press.moviewalker.jp』
しかし、そうした考察要素を差し引いても、本作が二番煎じの域を脱していない事実は否めない。あえて原作には触れず、映画単体として評価しても、Jホラーとしての既視感は極めて強い。
発想そのものに目新しさはなく、先述したかつての名作『ノロイ』に携わった制作メンバーが関与している影響か、数多あるJホラーの中で本作ならではの差別化ポイントを見出すのは困難だ。特異な個性を狙った作品ではないのかもしれないが、この手の趣向を愛好する身からすれば、〈またこのパターンか〉と云う溜息を禁じ得なかった。
その既視感の正体を探るべくストーリーや怪異に注目してみると、かつてネット上のオカルト掲示板を賑わせた『リゾートバイト』や『姦姦蛇螺』など創作系都市伝説(洒落怖)を組み合わせたような印象を受ける。山奥で無数の手を蠢かせる異形は『姦姦蛇螺』を、子を失った母が供物を誘い込む構図は『リゾートバイト』を彷彿とさせる。特に、蘇った子供がこの世のものとは思えぬ奇怪な変貌を遂げている点は、後者のプロットと切り離して考える方が難しいほどだ。(もっとも、こうした設定が現代ホラーの定番と化しているがゆえの類似かもしれないが)
さらに、本作で描かれる怪異の正体については実はエイリアン(地球外生命体)であるとの説が有力視されているようだ。このアプローチは、心霊的現象を超常現象へと置換する『THE 4TH KIND フォース・カインド』(2009年)にも通じるものがある。本来なら興味深い試みだが、先述した後半のチープな演出が災いし、心霊とSFの食い合わせを著しく悪くしている。
随所に特筆すべき点があるのは確かだが、総評としては、構成のミスマッチがもたらす歪な凹凸が、せっかくの恐怖を削ぎ落としてしまっている。そんな、なんとも口惜しい仕上がりの一作だった。



私が偏屈だと言われればそれまでだが、実はいくつかの理由から、邦画作品の多くを得意としていない。
最大の理由は《演技》にある。ことわって置くが、これは日本人俳優の技量を貶めているのではない。日常で接する日本人(私自身を含む)と、銀幕の中に現れる日本人とのギャップが、どうにも気になって仕方ないのだ。普段は感情表現がさほど豊かではなく、他人に干渉せず、良くも悪くも淡白な傾向にある日本人が、映画やドラマの世界に入ると途端に饒舌になり、オーバーリアクションになる。その芝居じみた挙動が、私を物語への没入から引き戻してしまうのだ。真剣なシーンであればあるほど、演技であることが強調され、気が散ってしまうのが悩ましい。
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これが『トリック』シリーズ(2000年〜2014年)のように、非現実的な演出やギャグに大きく振り切った作品であれば、その違和感も一つの様式美として楽しめるのだが、無論本作とは趣旨が大きく異なる。
ことホラー作品においても、サイコパスや憑依者を演じる俳優に、心から納得できた試しがない。その背景には、日本社会における心理学や精神医学への理解が、欧米諸国に比べて著しく遅れている点があるのではないだろうか。心理セラピーが普及し、トラウマや精神疾患への対処が一般常識として浸透している西洋圏に対し、日本の作品が描く《異常性》は、いまだ記号的な段階に留まっていると言わざるを得ない。日本では今も《PTSD》と云う言葉の意味に補足説明が必要な事も珍しくない程だ。

出典:”近畿地方のある場所について(2025) ©日テレアックスオン”『参照:https://press.moviewalker.jp』
これまでの邦画作品が描くサイコパス像といえば、血走った眼を見開いて刃物を舐めるか、あるいは無表情に殺戮を行い、スーツの返り血を疎ましく思うと云った描写が関の山だ。《共感力の欠如》と云う特徴だけを短絡的に記号化して人物設計をしているため、例えばハンニバル・レクターのような、知性と狂気が同居する魅力的で奥深いヴィランが生まれづらいのであろう。
その点、幸いにも『近畿地方のある場所について』には目立つ粗が少ない。そもそも、そうした過剰な演技を必要とするシーン自体が少ないからだ。
例えば、小沢が怪異の《了》に取り憑かれて語るシーンでも、顔をあえて映さない手法をとっている。これが、異様な恐怖感を損なわない名場面となっていた。ルネ・マグリットの絵画を思わせる《見えない違和感》を、画面の生理的な気持ち悪さに上手く転化させた印象的なカットだ。狂気じみた動きや、演技と意識せざるを得ない表情を排除したことで、シーンの不気味な空気感と、絶妙なリアリティを損なわずに堪能することができた。
また、安易なジャンプスケアが排されている点も好印象だ。単に角を曲がっただけでスティンガー音を鳴らすような苦し紛れの演出もなく、本作が意図したであろう《怪異が醸し出すじっとりとした空気》に、純粋に浸ることができた。

出典:”近畿地方のある場所について(2025) ©日テレアックスオン”『参照:https://press.moviewalker.jp』
冒頭で述べた通り、こうした日本人にとって身近な社(やしろ)や言い伝えが、日常の境界を越えて浸食してくる恐怖こそが『近畿地方のある場所について』の真髄だったと解釈している。
しかし、残念ながら瀬野(亡き息子を求めて禁忌を犯す女性ライター)に纏わるストーリーラインが、その繊細な恐怖を自ら壊してしまっている。いわゆる《どんでん返し》としての構造は面白いかもしれないが、彼女が息子を亡くした過去が判明した時点で、結末の予測は容易についてしまい、サプライズとしての強度は著しく低い。また、この手の作品ではお約束とも言えるカルト集団の登場により、瀬野には関わるべきでないことが火を見るより明らかとなる。
それにもかかわらず、小沢が不自然なほど盲目的に彼女と行動を共にする点には、どうしても違和感を拭い去れなかった。
結果として、逃れようのない《身近に迫り来る恐怖》は、登場人物が少し慎重に行動すれば避けられたであろう《安易な悲劇》へとすり替わってしまったのである。
極めつけは《やしろさま》が蘇らせた瀬野の亡き息子の姿だ。それが既に触れた通りチープなCGで描かれたモンスターに過ぎなかった点は、霊的な怪異に冷や汗を流していた観客の熱量を、一気に氷点下まで下げてしまうものではなかろうか。怪異が実体を持った瞬間に恐怖が霧散するのはホラーの常だが、本作はその演出の稚拙さゆえに、作品が積み上げてきた没入感を自ら放棄してしまったと言わざるを得ない。
『近畿地方のある場所について』のような作品で何よりも口惜しく感じるのは、題材の持つ真価を活かしきれていない点だ。例えば、同じくカルトや伝承を扱った『ミッドサマー』(2019年)は、北欧の神話や風習に基づいた緻密な演出が幾重にも張り巡らされ、その背景を知るほどに恐怖の深みが増していく。また、同作の主人公ダニーが抱える耐え難い悲劇と孤独も、本作の瀬野と重なる部分がありながら、その描き方は対極的と言わざるを得ない。
『ミッドサマー』では、ダニーの歪んだ精神状態や恋人との冷え切った関係性を、極めて詩的に表現することに長けていた。彼女が救いを求めてカルト集団へ傾倒していく過程も、信者たちとの奇妙な共鳴を介して丁寧に描写されているから共感と畏怖が混ざり合った複雑な心境を体感する事ができる。
翻って本作は、物語が淡々と進むテンポの良さはあるものの、各登場人物の造形があまりに平坦だ。観客が彼らから受け取れる感情は《怪異への恐怖》程度であり、そこに人間としての奥行きは存在しない。ホラー映画を、単に霊や怪異を並べて一時的な恐怖を与える《アトラクション》として捉える時代は、もう終わったのではないだろうか。つまり《恐怖を体験する為のメカニズム》として一側面的に捉えるのではなく、《情緒性を備えた芸術作品》として考えることだ。
本作のように、怪異の正体や伝承の実態を観客に考察させる構成をとるのであれば、語られずとも行動から滲み出る人間の業や、秘められた情念といった重みが必要だったはずだ。

出典:”近畿地方のある場所について(2025) ©日テレアックスオン”『参照:https://press.moviewalker.jp』
例えば、瀬野と亡き息子の関係性は、作中で全くと言って良いほど語られない。二人の思い出の場所も、彼女がどのような想いで子を育ててきたのかも、観客には一切明かされないのだ。彼女はあくまで《執念から怪異に踏み込んだライター》という記号に留まっており、母親としての顔は見えてこない。息子を蘇らせるために他者の命を奪ってきたであろう葛藤や苦悩すら描かれないのは、人間性の欠如と言わざるを得ないだろう。
極めて一次元的なのだ。彼女たちは、ストーリーを効率的に進行させるための《駒》としては機能している。しかし、一つの血の通った物語を構成する人間としては、到底評価できるものではなかった。
こうした《個のドラマ》の希薄さは、単なる脚本の不備というより、日本のホラーが抱える構造的な限界を示唆しているようにも思える。
西洋には、人類史上最も読まれた聖書を起点とする膨大な逸話や伝説があり、さらに深淵を覗けば『ゴエティア』のような魔術や悪魔召喚に纏わる秘術書が歴史の随所に点在している。これらはオカルトやホラーにとって、これ以上ないほど強固で豊かな土壌だ。一方、日本のホラーが拠って立つのは、往々にして特定の地方に伝わる怪伝説や、世俗から断絶された村の儀式、あるいは特有の土着信仰といった極めて局所的な題材に留まる。
私自身、民俗学の専門家ではないため早計な批評かもしれないが、一般に認知されている題材のバリエーションが、西洋のそれに比して圧倒的に少ないことが、Jホラーに目新しさが生まれない一因ではないだろうか。
本作のような趣向の作品も、結局は閉鎖的な村の奇習と云う手垢のついた結論に帰着しがちだ。そのたびに新規性や創造力の欠如を感じ、鑑賞後の興奮は削がれてしまう。しかし、だからこそ瀬野の様な人物に奥行を持たせる必要性があるのに、それをしないから有り体な作品にしかならないのだ。

出典:”近畿地方のある場所について(2025) ©日テレアックスオン”『参照:https://press.moviewalker.jp』
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個人的には、日本における最も解釈の幅に富んだホラーの題材は、霊や呪いよりも妖怪の類にあるのではないかと感じている。このテーマは往々にして子供向けの目線で語られ、大人が心底恐怖するような形では描かれないのが不思議でならない。西洋で言う悪魔が時代ごとに多様な解釈を加えられ変遷してきたように、日本の怪異もまた、既存の枠組みを超えた描き方ができるのではなかろうか。
本作『近畿地方のある場所について』は、先行する『ノロイ』や『牛首村』(2022年)、あるいは小説『のぞきめ』(2012年)のように、国内の民間伝承にクローズアップした不気味さこそ目を見張るものがあるが、それは映画というよりもアトラクションに近いエンターテインメントに留まっている。感情の奥底に訴えかける問いかけもなく、積み上げられた恐怖も、終盤のコミカルな演出で霧散してしまう。特に、トンネルに現れた霊をレンタカーで勢いよく轢き飛ばすシーンには思わず失笑してしまった。制作者は観客を恐怖させたいのか、それとも笑わせたいのか。その迷走が、作品を一層チープなものにしている。
日本の歴史的な美術作品の傾向と、現代のアートや映画を重ね合わせることはこじ付けだろうか。古来、日本の美学は多角的な視点を持つことよりも、静謐や無我といった一本足の様式を突き詰めることに終始して来たきらいがある。それはかつてゴッホやドビュッシーに衝撃を与えたジャポニスムの源泉ではあったが、裏を返せば、大河に投げ込まれた一石に過ぎない。一過性の話題性はあっても、時代の趨勢を左右する本流には成り得なかったのである。
見よう見まねの後追いに耽るか、あるいは安易な二番煎じに興じるか。堂々巡りの閉塞感に苛まれる現代日本を象徴するかのような本作は、せっかくのポテンシャルを扱い切れずに自滅した、残念な一作と評価せざるを得ないのだ。
この映画を観られるサイト
『近畿地方のある場所について』はAmazon PrimeやNetflixを中心に配信されている。是非、このレビューで興味を持って頂いた方も、レビューを踏まえてもう一度鑑賞してみたいと云う方も楽しんで頂きたい。
まとめ
映画『近畿地方のある場所について』は、日本の土着信仰やネット上の怪談(洒落怖)を愛好する人にとっては、そのエッセンスを大画面で味わえる「アトラクション」として一定の満足感を得られる一作だ。特に前半の、日常がじわりと怪異に侵食されていく写実的な演出や、安易なジャンプスケアに頼らない姿勢には、Jホラーの正統な恐怖が宿っている。
しかし、物語が核心に迫るにつれ、人間ドラマの希薄さとCG演出の拙さが、せっかく積み上げた没入感を自ら削ぎ落としてしまっている点は否めない。
瀬野が抱える「母としての情念」に血が通い、クライマックスの視覚効果にあと一歩のリアリティがあれば、本作は「ノロイ」に並ぶ新たな金字塔になり得たはずだ。結論として、本作は「正解のない恐怖」を深く考察したいファンや、アトラクション的なスリルを求める観客にはお勧めできる。だが、重厚な人間ドラマや、現代的なVFXを駆使した洗練されたホラーを期待するならば、少々物足りなさを感じるかもしれない。
良くも悪くも、現代Jホラーが抱える「構造的な限界」と「様式美」の両面を象徴する、非常に口惜しいポテンシャルを秘めた一作であった。
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