エノーラ・ホームズの事件簿
監督:ハリー・ブラッドビア
出演:ミリー・ボビー・ブラウン、ヘンリー・カヴィル、サム・クラフリン、ヘレナ・ボナム=カーター、フィオナ・ショウ、ルイス・パートリッジ、フランシス・デ・ラ・トゥーア、バーン・ゴーマン 他
言語:英語
リリース年:2020
評価:★★★☆☆☆☆☆☆☆
Enola Holmes(2020) © Netflix『参照:https://www.imdb.com』
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~”ただのアナグラムと謎を混同している、なんちゃってミステリー作品。シャーロックにお説教する割にシャーロックの名前借りちゃうのってご都合主義的じゃない?”~
~”さてさて、『女性の権利』『女性が抑圧されているアピール』『感情的で理不尽で頭が固い男性キャラ』『有名な男性キャラへのお説教』…よし、フェミニスト映画の材料は揃った”~
もくじ
あらすじ
イギリスの郊外に住むエノーラ・ホームズの母ユードリアが突如失踪する
ロンドンに住む二人の兄、マイクロフトと私立探偵のシャーロックを呼び寄せるが
彼らは興味を示す事なく、マイクロフトはエノーラを寄宿学校に入学させようとする
寄宿学校へ行ってしまえば、今までの生活を失い、母を探す事も出来なくなってしまう
怒ったエノーラは兄に反発し、ユードリアが残したヒントと資産を手に一人ロンドンへと向かう
その道中でテュークスベリー侯爵と出会い、2人は大きな陰謀へと巻きま来れて行く…
レビュー
あれは13年前のクリスマスの事だ。
待ち合わせ場所を間違えて、40分もデートの約束に遅れてしまった。そんな事を何故憶えているかと言うと、未だに引き合いに出されるからである。用意したプレゼントが相手の物よりも7,800円安かった事も当然忘れさせてはもらえない。
謝罪したとしても、埋め合わせをしても関係ない。失態やミスは半永久的に蒸し返され、責める為の武器となる。男性が同じ事をしようものなら『女々しい』か『ねちっこい』と云った類の罵倒で一蹴されるので手も足も出ない。手も足を出ない事で相手は勝利をしたと思い、悦に入る。
『エノーラ・ホームズの事件簿』は昨今のメディアに流行しているフェミニズムや女性のエンパワーメントを主軸に置いた数多い作品の1つだが、それ即ち女性が抑圧された過去を蒸し返してこれ見よがしな演説を延々と垂れ流す事に他ならない。女性の強さをテーマに掲げる作品でありながら、ステレオティピカルな女性の『ねちっこさ』が垣間見える作品に仕上がったのは実に皮肉である。
批評家の間でも好評を博した作品で誰もが知るシャーロキアンな世界に新たな息吹を吹き込むと評されていたので期待して鑑賞したものの、ありがちなフェミニズムに焦点を充てた退屈な物語に過ぎなかった。現代フェミニズムによると、男性を弱者や悪役に仕向けないと女性は輝けないらしい。同作はミステリーに該当する様だが、いよいよ『フェミニズム』と云う新たなジャンルを用意した方が良いだろう。
出典:”Enola Holmes(2020) © Netflix”『参照:https://www.imdb.com』
ナンシー・スプリンガー著の小説が原作となった『エノーラ・ホームズの事件簿』はミリー・ボビー・ブラウンを主演に迎え、劇場公開を控えていたがCOVID-19の蔓延で配信サービスでの上映に留まった作品だ。しかしながら、公開時の週末視聴数では配信プラットフォームNETFLIXで第2位に輝くと云った実績を挙げており、懸念されていたパンデミックの影響は杞憂に過ぎなかった。
本作は名探偵シャーロック・ホームズの妹であるエノーラ・ホームズが中心となって展開される失踪ミステリーを追う筋書きとなっているが、そこには浅薄な雰囲気が漂う。
ミステリー映画と云うのは謎の深さもさる事ながら、ストーリー展開や物語の構造も重要だ。その上で巧妙に仕掛けられた伏線を漏らさず回収し、理路整然としつつも意外性のある結末に帰結する流れが理想である事は言うまでも無い。その過程で魅力的で印象深いキャラクターと出会えたならば、尚良いだろう。
『エノーラ・ホームズの事件簿』はいずれも実に中途半端なのだ。
エノーラの母親であるユードリア・ホームズが突如として失踪してしまう事が本作の起点となり、そこにバジルウェザー・テュークスベリー侯爵(アンデルセン童話にでも登場しそうな名だ)暗殺未遂の謎が重なるがいずれも逼迫感に欠け、没入感に乏しい。エノーラはユードリアを探す道中でテュークスベリー侯爵と出会い、彼とその一家を取り巻く陰謀へと巻き込まれて行くものの、緻密に練られたミステリーからは程遠いのだ。
主にはフェミニストに向けた作品なのでウーマンリブ運動の類への言及が豊富だ。ミステリーへのフォーカスよりも女性の権利へのフォーカスに重きを置いた映画であり、本作の謎やシャーロック・ホームズの名は映画化と集客の口実に過ぎないと云うのが正直な印象である。申し訳程度に活躍するシャーロック・ホームズに『マン・オブ・スティール』(2013年)で一躍スターダムへと昇ったヘンリー・カヴィルを起用したのも、その疑いに拍車を掛ける。
(カヴィルには殆ど台詞も無く、単なる客寄せパンダの様な立ち位置に追いやられている)
第四の壁を破る演出やエノーラのホープフルな初々しさを用いて、重苦しいミステリーとは一線を画してこそいるが内容があまりに軽い。
出典:”Enola Holmes(2020) © Netflix”『参照:https://www.imdb.com』
風光明媚な景色を捉えたショットや、殊に日本では馴染の薄い広大なカントリーサイドに佇む邸宅は美しく、都会の喧騒とは比較にならない優美な世界がスクリーンには時折広がるが(それも産業革命を両手に抱えたロンドンにシーンが切り替わるまではある)、物語とは対照的な『エノーラ・ホームズの事件簿』の数少ない特長の1つとして挙げておこう。
如何せん『エノーラ・ホームズの事件簿』は結果的にミステリーを笠に着たフェミニストの為の映画であり、如何に女性が抑圧されていて窮屈な環境を強いられているが故に本来の自分を見出す事が難しいかを長々と語る作品だ。触れるまでも無いだろうが、(自立した強い)女性は『夫は要らない』し『良き妻になる必要もない』と云うこの類の作品では典型的で決まり切った主張も漏れずに本編の台詞に鏤められており、新鮮味は感じられない。
批評家は政治的なアジェンダを起点に評価をしている傾向が昨今目立つ。残念だが物語の質よりも、DEIや女性優位の視点が作品の善し悪しを決定付けると考えても差支えない程に現代社会の目線は偏っている事は疑う余地が無いのだが、多数の好意的な評価を素直に信じて本作に期待を寄せてしまった事が実に悔やまれる。高評価のレビューは、往々にして『エノーラ・ホームズの事件簿』で言及される女性としての権利や抑圧に中指を立てるエノーラを賞賛するものばかりで、ストーリーには殆ど触れられていないのだ。
『エノーラ・ホームズの事件簿』に登場する人物はエノーラを始め、ミステリーの中心的な役割を追うユードリアやテュークスベリー侯爵、そしてその2人を取り巻く面々と云った具合に少なくない。
しかし、脚本とディレクションのどちらに矛先が向かうべきか定かでは無いのだが、結果的に各キャラクターがいずれも取るに足らない仕上がりとなっている。テュークスベリー侯爵も本作の重要な人物だが、驚愕するほど存在感が薄い。その人物像は『軍への入隊を強制する家族に抗って逃げ出した子爵』の他に全く形容のしようが無いのだ。
血が通った人間らしい複雑な内面や奥行に一切欠けている。
そうでなくともアイデンティティらしきものは欲しいのだが、『エノーラ・ホームズの事件簿』はそれさえも与えてくれない。正義感が強い紳士、冗談が上手い剽軽者、情に熱い熱血漢と云った人格的な特徴や気質が無いのである。背景に紛れるエキストラに毛が生えた程度のパーソナリティに留まり、テュークスベリー侯爵に扮するルイス・パートリッジも演じる幅が狭くて窮屈そうに思えた。
エノーラとテュークスベリー侯爵の最大の共通点である、『家族に敷かれたレールを拒絶して我が道を行く』と云った2人の志に焦点を当てれば、未熟でありながら果敢に大きな夢へと進むエネルギーと希望に満ちたキャラクターの素顔をもっと深掘って描けただろう。無論、『エノーラ・ホームズの事件簿』には傍若無人な男性に立ち向かう女性を描く事の方が優先順位が高くなっているが。
出典:”Enola Holmes(2020) © Netflix”『参照:https://www.imdb.com』
寄宿学校での淑女教育の様子を引きずる様に長々と語るよりも有用な時間の使い方があったはずだが、『縛られず自分らしく生きる』などと具体性の無いプアーなコンセプトに留まるエノーラの道は、制作陣も敢えてそれ以上は触れない事にしたのかも知れない。実に陳腐で面白味の無い内容だ。
エノーラとテュークスベリー侯爵の恋模様も全く物語に寄与する事は無く、無用だ。2人の距離が縮まっていく様子も共感に値するものが無い。2人が惹かれ合うのは、荒れ狂うホルモンに踊らされる恋愛に不慣れな思春期の男女の戯言と云うのが関の山だ。
ユードリアも『才色兼備の女性活動家』と言う他に無く、人間味が皆無だ。
失踪したとて、亡くなったとて、さしてショックに感じる理由も無いキャラクターだ。彼女を追うエノーラに共感する余地もこれと云って無く、単なるストーリー上の自然な成り行きとして無感情に傍観するに過ぎない。一般的な母娘以上に特別な関係性や絆を感じさせるものは無い。表情だけで百の感情を表現できるヘレナ・ボナム=カーターの才能が報われないのが一層腹立たしい。
そしてフェミニズムに欠かせないが『横暴な男性』だ。女性が強く、正しい事を示す為に男性には傍若無人で頭が固い暴君になって頂く必要がある。
『エノーラ・ホームズの事件簿』でもフェミニストに満足頂くべく、その不名誉でステレオタイプ(差別的と言う余地もあるかも知れない)な男性として抜擢されたのは、マイクロフト・ホームズだ。アーサー・コナン・ドイルが生み出した原作では、マイクロフトは弟シャーロックをも凌ぐ頭脳の持ち主で、シャーロックが行き詰まると助言を求めに行く程の相手であるが、当然フェミニストが聞く耳を持つはずがない。
マイクロフトは威圧的で高慢な上に、エノーラを怒鳴り付けると云った本来的に持ち合わせている論理的思考よりも感情を爆発させる短気で女性卑下的な男性として描かれてしまっているのだ。こうして男性が敢えて下位の存在とならなければ、女性は上に立てないらしい。平等としたいのか、卑下したいのか意図が読めない。
出典:”Enola Holmes(2020) © Netflix”『参照:https://www.imdb.com』
ミステリーの側面も一切印象に残らない。
焦燥感を煽る謎や危機が迫る事もなく、謎解きと言えばレター・ブロックの玩具でスタイライズされた演出だけが特徴的なアナグラム遊び程度のものだ。エノーラはアナグラムが何よりも得意な様で大変結構なのだが、それだけで探偵としての経験が豊富な兄のシャーロックを出し抜くのは無理があるだろう。
無論フェミニズム作品である以上、易々と出し抜く訳だが。そして当然ながらマイクロフトの頭脳は一寸も出る幕は無い。
平均的なティーンエイジャーよりも賢く、リソースフルなのは確かだがエノーラ自身も魅力に欠けるキャラクターだ。陳腐だとしても、オーディエンスが驚く様な聡明さを遺憾なく発揮するシーンは必要だっただろう。若さ故の人生経験の乏しさや、世間知らずな為にトラブルに巻き込まれたり、苦悩する様子を対比させる事で人間臭さが漂う主人公にもできたはずだ。エルキュール・ポアロやフィリップ・マーロウの様に中年の男性陣や、ジェーン・マープルの様な老嬢がアイコニックな探偵キャラクターとして名を連ねる中、エノーラの様に若い女性が加わる事は非常に面白いし、歓迎したい事である。
若者の目線で語られる葛藤も幼さも、人物像として広く受け入れられるエッセンスになり得たのに勿体ないと言わざるを得ない。
この類のテーマを論じる際は、マーケティングの理論を出すと分かり易い。
インターネット、そしてSNSの普及で毎時の様に目にする広告類だが、製品やサービスのターゲットが女性か男性かで内容が大きく異なっている事にお気付きだろうか。DEIの思想によれば男女の違いは無い(少なくとも名言してはいけない)様だが、身体的な違いも心理的な違いも少なからず存在するのは事実だ。
男性は、苦悩を乗り越えたり、努力や鍛錬を通じて成果を手にする事を好む傾向にある。アイテムやスキルを手にしてレベルアップして行く事に楽しみや充実感を感じ、競い合う事で高みを目指そうとするのだ。
一方で女性は、生まれながらにして特別視されない事を疑問に思い、本来の自分と実際の自分との乖離に悩む傾向がある。絶えない努力や鍛錬よりも、何かの切っ掛けで本来の己の姿を開花させる方法を探すのだ。マーケティングをする際に踏まえるべき大きな男女の違いはここにある。
男性をターゲットとして製品やサービスは、購入する事でレベルアップする事を示す様なコピーライティングが効果的だ。元々特別な人間では無くとも、広告の製品やサービスに課金する事で特別になれる様な触れ込みに惹かれる男性は少なく無い。他方で女性をターゲットにするならば、製品やサービスを購入する事で本来の自分になれる事を謳えば魅力的に映るのだ。
『エノーラ・ホームズの事件簿』は、その点から女性向けの作品と言っても過言ではないだろう。
出典:”Enola Holmes(2020) © Netflix”『参照:https://www.imdb.com』
フェミニズムや女性のエンパワーメントにフォーカスした作品の多くが、女性は努力で成果や力を勝ち取るよりも、周囲の抑圧によって女性に備わる『本来の強さ』を昇華させる事に注目している。女性は生まれながらにして特別であり、抑圧さえ振り払えば本来のパワフルで秀でた力を発揮できると言いたげなのだ。
男性よりも女性に共感し易い内容に仕上がっている。
その点では致し方ないのかも知れない。エンパワーメントを謳う女性に評価される為には、努力や成長を描くよりも理不尽な外圧(社会が悪いと云う発想)に問題があるのであって、女性は哀れな被害者であり、真の姿を手にする事が出来ていない描写を強調するのが合理的ではあるだろう。そして歴史的にも、男性は責任の所在を押し付ける先として最適だ。
だが、映画は広告とは性質が大きく異なる。
無論、プロパガンダに使われる事は珍しくないし、政治的なコメンタリーが包含される事も今に始まった事ではない。プロダクト・プレイスメントなど広告と共通する面も少なく無いが、映画はストーリーが最も優先すべき重要な土台である。その上にメッセージやコメンタリーが載るのであって、優先順位が反転する事は有り得ない。
フェミニズムがテーマの作品に最も顕著ではあるが、マイノリティを対象としたDEIの毛色が強い作品の多くもこの優先順位を取り違えている様に感じる。男性の多くが女性卑下の思想を持っていると仮定したり、白人の全てが人種差別的だと仮定する事でしか成立しないメッセージに溢れ返っている上に、物語に引き込んだりキャラクターの成長をリアルに描く事よりも鬱憤を晴らす事に精一杯の様にしか思えないのだ。『私は自分に自信がある』と胸に秘めるのではなく、世に言い聞かせる様に発信しがちなのも劣等感の裏返しなのだろう。全身をブランド商品で固めたコーディネイトを好む人間の心理に近いものを感じる。
出典:”Blue Beetle(2023) © Warner Bros. Pictures”『参照:https://www.imdb.com』
映画好きとしては、素直に作品としての物語や映画を構成するシネマトグラフィや脚本に注目したい気持ちは山々だ。ポリティカルなトピックは深く分析したくないし、意見を述べるのも憚られる時代である。
しかし、そんな想いを嘲笑うかの様に聞き飽きた三十番煎じのメッセージをパイ投げよろしくスクリーン越しに投げつけて邪魔をするのだから、レビューもそこに言及する他に無いのだ。ストーリーに意識を向けても、DEIが視線を遮る様に画面いっぱいにクローズアップされてしまうので到底無視できない。
まるで落ち着きのない4歳児と映画を観ようとする様なものだ。
炎上商法が手法として広く知られ、使われる様になってからこうした作品が増えた様に思う。扇動し、敢えて賛否両論を誘い、それによって大衆への認知を得ると云ったチープで自尊の欠片も感じられない手口が普及しつつある。倫理や品質よりも、利益の為ならば手段を選ばないDEIを利用した商業的な考え方がエンターテインメントや芸術の領域をも踏み躙ろうとしているのは残念極まりない事だ。
『エノーラ・ホームズの事件簿』は、そんな,b>現代社会に蔓延る有毒な思想を再び再認識させられる作品となってしまった。
この映画を観られるサイト
『エノーラ・ホームズの事件簿』はNetflixにて鑑賞頂けるので、ご興味がある方は是非ご自身の目で鑑賞して欲しい。レビューとは同意しない事や、新たな観点もあれば是非鑑賞頂いた後にコメントを頂けると有難い。
まとめ
『エノーラ・ホームズの事件簿』は新鮮味が無いばかりか(シャーロックの名を女性にあてがうと云うチープなジェンダー・スワップを新鮮味と云うのならば、そこまでだが)、ミステリーとして重要な謎めいた側面も弱く、中心キャラクターの魅力も特筆するものが無いインパクトが薄い作品だ。
アナグラムに主軸を置くとしても、エノーラの独特な発想が垣間見える様な演出も無く、英字アルファベットが付いた子供向けの積み木を使って脳内で易々と解かれるだけだ。スタイライズされた演出であるだけで、エノーラのずば抜けた頭脳力を堪能するには事足らない。
真犯人の動機や、その行為の悍ましさや恐ろしさも胸に響くものは一切無く、エンド・クレジットと共に記憶から流れ出て行く。シャーロックやマイクロフトを利用して男性を貶める発言を捻じ込む事に必死なのは伝わるが、一方でエノーラの人物的な深みやストーリー上のエンターテインメント性を重視した様には到底思えない。『男性は抑圧的な差別主義者で信じるに値せず、女性の方が強いのだから男性社会を打破すべきである』とポスターに表記さえすれば、本編を観る必要は殆ど無くなる。
活動家思考の若年層オーディエンスもそれで満足だろう。ただただそう思わせる映画だ。